大津地方裁判所 昭和29年(わ)102号 判決 1958年3月27日
被告人 西山治三郎
主文
被告人は無罪。
理由
本件公訴事実の要旨は、被告人は昭和二十九年六月二十五日午前五時半頃大津市松本平野町所在の大津市立打出中学校新校舎(第二校舎)西側階段下物置内で罫紙、洋紙、会計簿の表紙及び炭俵等にアルコールをふりかけこれに点火して放火し、よつて同校校長平尾新三郎の管理し現に人の住居に使用する同校校舎四教室を焼燬したものであると云うにあり、検察官において右の如くに主張する論拠は、検察官提出の論告要旨書記載の理由の通りである。よつて以下右論告要旨書記載の順序に従つて検察官主張事実の当否につき検討を加えることとする。
第一、本件火災が放火にして犯人は同校内部の者であるとの主張について、
司法警察員川副順一郎作成の検証調書、京都市技術吏員安藤直次郎作成の大津市立打出中学校における火災原因調査についてと題する書面(同人作成の同火災現場写真綴を含む)、並に右安藤直次郎の第四回公判調書中の証言記載部分(以下証言若しくは供述記載部分を単に証言又は供述と略記する)その他を綜合して認められる如く、本件火災の出火地点が前記公訴事実記載の物置内東北隅であつて、同火災に石油箱に軽く一杯量の紙屑、藁俵並びにエチルアルコール約一合以上等が使用せられたものと推認せられるところよりこれをみて、本件火災が検察官主張の如く、何人かの放火行為によるものであることは疑を容れない事実である。
而して、証人二村成、同小林昭二、同井上義正、同中島勗、同山根正夫の各供述、吉沢多加子、西山ヨシオ、福住恵一の検察官或は司法警察職員に対する各供述調書及び証第八号硝子障子枠の燃燬状態等を綜合すると、
(1) 同校舎の右火災前夜における戸締状況が極めて厳重で、窓ガラスを破壊して侵入する等の非常手段にでもよらない限り外部の者による同校舎従つて同火災現場物置内への侵入が殆んど不可能な状態にあつたこと、
(2) 火災前、同校舎に窓ガラスを破壊して侵入する等というような非常手段の施された形跡がなく(校舎北側中央出入口及び本件物置内南側明り取り窓の施錠がはずされてはいたが、しかしこれら窓ガラス等には本件火災以前にいずれも破壊された形跡はない)
(3) しかも右の施錠の為される以前に同校舎に何人かの潜入者がいたと思われるような特段の事情もなかつたこと(若しそのような潜入者がいたとすれば当然日直教員たる二村成或は吉沢多加子等に発見せられている筈である)が認められ、
(4) 且つ、平素授業終了後における同校舎への外部からの唯一の出入口として使用されていた北側西出入口の施錠が、弁護人主張のように学校関係者以外の者により合鍵若しくは同校宿直室又は小使室に保管されていた錠前を使用して開閉されたものとは到底考えられないこと等より推して本件放火が検察官主張の如く北側西出入口の施錠を自由に開閉し得る地位にあつた者即ち同校内部の者によつて行われたものと推論することには必ずしも異論をさしはさむものではない。(尤も右(1)乃至(4)の点についても仔細に検討すると、(2)の点は一応これを是認するにしても(1)の点についていえば本件校舎の大きさ、第一、二回火災以後校舎周囲には侵入者が潜み乃至は看視の目を避けるに適した焼残物の多量推積していた事実、日直、宿直教員の巡回についての注意の程度、特に夜間におけるそれが然く完全であつたか否か疑の余地なしとはしない点更に窓、扉等の施錠が外部より揺り或はこじあけ或は持上げる等の所為により絶対に開かないものであるとの点の立証のないことよりして、戸締の絶対完全性は認め難いところであり、従て又(3)の潜入者の虞も之れ亦絶対に否定し得ないものであり(4)の合鍵も以上の見地よりすれば必ずしもこれを必要とするものではない)
第二、被告人が本件放火の犯人であるとの主張について
然らばその内部の者の中一体何人が本件放火を敢てしたことになるのであろうか。
検察官はその中の被告人がその犯人であると断定する。その理由は、
(一) 先ず第一に、本件出火当時同校内には井上義正、小林昭二両宿直教員と被告人夫妻しかおらず、右両宿直教員等は火災前夜零時半頃就寝し、翌朝午前六時過ぎ火災の急報を受けるまで熟睡していた旨供述しており何等不審な点が認められないのみならず、若し右両教員等の中の何れかの者の犯行と仮定するならば、前記安藤証人の(鑑定)証言によつて明かな如く、本件放火行為は当日午前五時半前後頃敢行せられたものと推定せられるところであるから、同日午前五時頃より目をさましていたとする被告人夫妻の中の何れかに何等かの異常を感知せられている筈であるが、本件においてはそのような事実は全くなく、到底右両教員等の犯行とは認められない。而してまた被告人の妻西山ヨシヲにも何等不審な点は認められないから、本件放火の犯人は残りの被告人と云うことにならざるを得ないと云うのである。
然しながら、なるほど検察官主張の如く右宿直教員等が被告人等夫妻の住居する小使室周辺の放火材料を使用して放火行為を行つたと仮定すれば、或はそれより以前の午前五時頃既に目をさましていた筈の被告人等夫妻により何等かの異常が感知され得た筈かも知れないが、後述の如く本件においては必ずしも検察官主張の如く小使室周辺のものが放火材料に使用せられたとは限らないのであつて、その場合においては仮令被告人等夫妻がそれ以前に目ざめていたとしても、同人等によつて何等の異常をも感知されることなく本件の如き犯行を為し得ない訳のものでもないのである。
若しまた仮りに、検察官主張のように本件放火材料に小使室周辺のものが使用せられたとの仮定をとるとしても、本件放火の推定時刻が午前五時半前後頃であり、しかも被告人のみならず被告人の妻西山ヨシヲもその前の午前五時頃目をさましていたものと認められること、検察官においても是認される通りであるから、検察官主張の前記宿直教員による犯行と仮定した場合同様被告人による犯行と仮定した場合にあつても、同人がそのような時刻に小使室周辺の放火材料を取り出す等の行為をしていれば、当然被告人の妻西山ヨシヲにそのことを覚知されていなければならない筈のものであるが、本件においてはそのような事情を窺うに足りる資料は何一つとして存在しておらないこと前記宿直教員の犯行と仮定した場合と同様である。従つてこの点に関する限り被告人についても何等不審な点は認められない。
ただ被告人は本件放火が行われまたはまさに行われんとしつつあつた同日午前五時半頃小使室を出て行つているが、しかしこれも時間的に言つて、その頃小使室を出て前記犯行推定時刻までの短時間(或は同時刻)内に前記第一において認定したような放火材料を携行して本件火災現場に赴き、放火した後、外部からの侵入を装うため同物置内南側明り取り窓及び校舎北側中央出入口、特別教室礼法室出入口、同教室内西側硝子窓の差入錠を外す等の工作を施すことが、不可能とまでは言い切れないまでも極めて困難な状況にあるものと認められること並びに、被告人の妻西山ヨシヲの検察官に対する第三回供述調書に明かな如く、被告人が右の際用便の落し紙を携行している(この点は西山ヨシヲがそのことを感知している)ことよりみて、被告人の供述する通りに右は被告人の用便のための外出(室)であつて本件犯行とは何等関係なく犯行の疑を挿む余地のない行為と認めるべきものである。
(二) 第二に検察官は、被告人を犯人なりとする理由として、次のように本件火災現場等より被告人と直接間接に関係ありと思料される多数の証拠物件が発見せられたことを挙げている。
(1) その一は、証第九号の燃え残りの四筋の藁繩及び同第十九号の写真の藁繩の存在がこれである。
これについての検察官の主張は、被告人は昭和二十九年五月二十六日第一回目の打出中学校出火の際その警備のため同校に出動して来ていた警備消防団員よりその採暖に使用後の炭俵(藁角俵)一俵の寄贈を受け、本件出火直前までその空俵を小使室北側軒下に他の炭俵と共に積上げていた事実があり、しかもこの炭俵は捜査の結果県内高島郡剣熊村高木勇方において生産され、同人方より同地吉野新次郎、大津市の木村喜太郎等の手を経て前記消防団員等の手にわたり、それが更に被告人のところに寄贈されるに至つたものであることが判明したのであるが他方本件火災現場より発見された右証第九、第十九号の藁繩もその形状等(後記)よりみてこれが炭俵の藁繩であること及びこれらが通常の炭俵の横繩より太く青味を帯びた新しいものである上、男結びの結目のある点(検察官はあたかも証第九号の繩に男結びの結目があるかの如くに論述しているが、同号証にはその様な結目はない。証第十九号と同第九号とを混同しているものと考えられる)よりして同じく前記高木勇方において生産された炭俵(藁角俵)の横繩であることが確認されたのである。そして前記小使室北側軒下に存置されていた炭俵一俵が本件火災後何処よりもその存在を発見し得ないことを併せ考えるとき、該炭俵が本件放火の材料として使用されたものであろうと推認されることは蓋し当然の事理であつて、このことはとりもなおさず、右空俵を自由に放火材料に供し得る者即ち被告人がその犯人であると言うことを示すものに外ならないと言うにある。検察官主張の如く本件火災現場跡より右証第九、第十九号の藁繩の外に、炭俵などについていた絵符用の針金と認められるもの一本(証第十六号)及び安藤証人が炭俵の底のようなものに似たものと認める藁の燃え残り若干が発見せられている(安藤直次郎の前掲火災原因調査についての書面、写真及び同人の証言による)こと、証第九号の藁繩が本件火災による相当な火熱の作用を受けているものと考えられるにも拘らず、なお依然として直角様の彎曲を存し、相当長期間炭俵その他の方形のものの緊縛に使用されていたものと認められる上、証第十九号の写真の繩に男結びの結目があること等を綜合すると一応同第九、第十九号の藁繩が検察官主張の通り炭俵(藁の角俵)の縦繩若しくは横繩に使用せられていたものと推認される上、同各号証の藁繩が通常の炭俵の藁繩より太く、同第十九号の繩に男結びの結目があること等特別の事情にあることよりして、これらの藁繩がこれと同様の特殊な条件を具備する前記高木勇方生産の炭俵の横繩であるとされる検察官の主張も必ずしも故なしとはしない。
然し乍らその間の事情を更に詳細に検討すると検察官の右主張はそのままこれを是認することは出来ない。
(イ) 先ず第一に証第九、第十九号の藁繩は検察官主張のように藁炭俵の藁繩であるかどうかが判然としないし、又本件放火に使用された藁炭俵の藁繩であるかどうかも判然としない。本件火災現場から前記安藤証人が炭俵の底のようなものに似たものと認める藁の燃え残り若干が発見せられているところから、右放火に藁炭俵が使用されていることは容易にこれを推認し得るところである。従つて、右証第九、第十九号の藁繩がその藁炭俵と一体を為して存在していたものとすれば、それが右藁炭俵の藁繩である可能性は極めて強い。ところが本件においてはその点の立証は十分に為されていない。本件火災発生現場である右物置内には安藤証人のいう右藁炭俵の外に、炭俵の藁繩がすつぽりと抜け落ちたような二重巻きの二筋の繩が存在していたことが昭和二十九年六月二十日の同校第二回火災後の夜警員である証人福岡芳太郎の供述によりこれを認めることができる。そこで右の証第九、第十九号の藁繩とこの福岡証人の認めた藁繩との関係について考えるとこれが全然別個のものであつて、同一のものではないと言う証拠はない。検察官はこれらが全然別個のものである旨主張するが、これは首肯し得ない両者が同一のものである可能性もある。そして若しこのようにそれらの藁繩が同一のものであると仮定すれば第一に、福岡証人の言う繩がその形状よりして炭俵の繩である可能性は強いにしても、それと確定せられたわけではないから、証第九、第十九号の繩が必ず炭俵の繩であるとは断定し得ないし、次にその藁繩即ち証第九、第十九号と本件放火に使用されたと認められる前記藁炭俵(この藁炭俵は前記第二回火災後の福岡証人の夜警見廻り際には同証人はその存在を認めていない)とが全然関係のない別個独立のものであることになるのは言うまでもない。言い換えれば証第九、第十九号の藁繩は安藤証人のいう炭俵の藁繩ではないと言うことにならざるを得ない。仮令同火災現場より右の外に証第十六号の炭俵等に使用せられる絵符用の針金と認められるもの一本が発見せられ証第十九号の写真の繩に男結びの結目があり、同第九号の一の繩に直角様の彎曲が残存する等の事情にあるとしても、これらの事情はいずれも右事実を否定する資料とは為し得ない。蓋し、証第十六号の如き絵符用の針金を有し、同第十九号の如き男結びの結び目を有する藁繩はただに該炭俵の縦繩若しくは横繩に限られる訳のものでもないし、同第九号の一の如き直角様の彎曲を残存するものも、炭俵の藁繩の場合のように長く何等かの方形のものの緊縛に使用せられていればよく敢て同炭俵の藁繩に限定せられなければならぬ理由もないところだからである。仮りに一歩を譲り、直角様の彎曲を残存する証第九号の一のみはその形状自体より炭俵の縦繩若しくは横繩であると推認することが許されるとしても、その他の証第九号の二の二本の藁繩及び同第十九号の写真の藁繩はそれ自体にては何の特徴もなく炭俵の藁繩であるか否かが判然しないばかりか、これと右の証第九号の一の藁繩とが同一のものであるかどうかも明かでないから、同第九号の一の藁繩と同一で右炭俵の繩であると云う推理をすることも許されず、遂にこれらの繩は右炭俵の繩であるか否かが判然としないと言わざるを得ないこととなる。
(ロ) 第二に、右各号証の繩は検察官主張のように高木勇方において生産された炭俵の横繩であるかどうかも判然としない。
(i) 検察官は右各号証が高木方生産の炭俵の繩であることを示す根拠として、これらの繩がすべて通常の炭俵の繩に較べて太さが太く青味を帯びた新しいものであつたと言うことを挙げている。然し先ずこれらの繩がすべて炭俵の繩であるか否かが判明していないこと前述の通りであるし次に太さその他が右高木方生産のものと略同一で通常の炭俵の繩に比し前記特色を有するにしてもそのことだけでこれらの繩が高木方生産のものであると断ずる訳にはいかない。蓋し、本件の如き機械繩にあつては同種の機械同種の材料を使用する限り何人によつてでも略同様の繩の生産をすることが出来る上、同種の機械材料は巷間到るところにこれを求め得るところだからである。当裁判所において検察官の請求によりこれらの繩と高木方生産の他の繩との異同の鑑定を求めんとしたのに対し遂にその不能な故を以てこれを実施し得なかつたことが最も雄弁にその間の消息を物語るものである。
(ii) しかも、本件においては右各号証が高木方生産の炭俵の繩と同一の太さ等を有するものであると云うことも十分に明かにせられてはいない。
証人吉田清、同木村喜太郎、同木村喜一、同吉野新次郎、同高木勇、同名倉辰男等の各証言を綜合すると、捜査官において、右証第九、第十九号の藁繩が右高木勇方生産の炭俵の藁繩であると確定するに至つたのは、右名倉証人により証人木村喜太郎方に証第十九号の写真の藁繩が持参され、同証人によつてそれが吉野新次郎から仕入れた高木勇方生産の炭俵の横繩であることが確認された上、更に証人吉田清によつて右吉野新次郎並びに高木勇に証第九号の二の藁繩一本が提示され、同人等によつても亦その藁繩が右高木勇方において生産された炭俵の藁繩と同一のものであることが確認されたことによるもののように認められる。ところがこれらの繩そのものはいずれも機械繩であつて特別の特徴なく単にその太さその他の形容(形態)からのみその同一性を推認し得るに止まるもので、同証人等により厳密なる意味の同一性の確認が求め得られないこと前記(i)記載の通りであり、これら証人等の右確認能力には余りに多くの信を措き得ないことも言うまでもないところである。従つて同証人等によつて右のようにその同一性の確認が得られたとしてもそのことによつて直ちに証第九号の二及び同第十九号の藁繩が高木勇方生産にかかるものと断定し得ないことは勿論であるが、今若し仮りにこれら証人の識別能力及び証人吉田清の証第十九号の写真の繩は青味を存したもので証第十八号とは全然別個異質なものであつたとの証言に或る程度の信をおくとするならば、証人高木勇、同吉野新次郎は当公判廷においては、本件各証拠物中、右高木方において生産された証第十五、十七号の炭俵の繩に最も近似するものは証第十八号であつて、証第九号の一、二の各繩はいずれも右証十八号程には同第十五号、第十七号に近似しておらない旨供述しているところであるから、その押収個所その他よりして高木方生産の証第十五号第十七号とは全然別異のものであることの明かな証第十八号の藁繩よりもなお近似性の少い証第九号の一、二の藁繩及び一見して同第十八号と全然異質のものであることの明瞭とされる同第十九号の写真の藁繩とが右高木方生産の繩とは全然別個異質のものと解されざるを得ないことは自明の理であろう。検察官は証第十九号の写真の繩に青味が存し証第十八号とは全然別個異質なものであつて、捜査官が前記証人等に提示し確認されたものは証第十八号ではなく証第十九号であつたことは明かである旨を強調するが、この場合重要なことは捜査官が過去において前記証人等に示したものが果して右の証第十九号であつたか第十八号であつたかにあるのではなく、同第十九号が、同第十八号その他に比し高木勇方において生産された炭俵の繩に如何に近似(同一)していたかに存するのである。そして証第十九号の写真の繩に主張のような青味が存したものであつたとしてもそれは何等右の点にプラスされるものではない。何となれば検察官において高木方において生産されたものと主張する他の証第九号の各藁繩自体が特に青味を有するものである訳でもなく、主張の如く青味を存すると言うことは何等高木証人等によりその特性として主張もされていなければ、またその特性とされるに足る特別の事由も存しないからである。
以上の外に証人高木勇は証第九号の一についてその中の一本はヒゲがあり自己方におけると同様であるが、他の一にはヒゲがない様に認められるから自家において生産されたものではない様に思われる旨述べており、その同一性を否定しているがこのことは一面において検察官主張のように右証第九、第十九号証と高木方生産の炭俵の繩とが全面的に一致しないものであることを示すと同時に、他面右各号証相互間においても、それらの藁繩すべてが必ずしも同一の炭俵の藁繩ではないと云うことを示しているものに外ならず、従つて前記のように捜査の段階において、前記証人等によつて証第十九号の写真の繩と高木方の繩及び同第九号の二の中の一本の繩と高木方の繩とが夫々その同一性を確認されたとしても、そのことの故に直に他の証第九号の一、二の繩と高木方の繩とも同一のものであると推論し得ないのは勿論であり、しかもこのように高木方のものであると確認されたとする証第十九号及び同第九号の二の繩そのものは他の第九号の一の繩に比し炭俵の繩でない蓋然性が特に強く認められるところのものであるから、仮りに同第十九号及び同第九号の二の繩と高木方生産の炭俵の繩との同一性(真の意味では同一性ではなく蓋然性にすぎないのであるが)が認められたにしても、その証明力は自ら僅少なものとならざるを得ないのである。
(iii) 更にこれら藁繩が高木方炭俵の横繩であるかどうかもその立証が十分でない。検察官は右各号証の繩が高木勇方生産の炭俵の横繩であることを証するものとして証第十九号の写真の繩に男結びの結目のあることを挙げている。その理由は同人方において生産された炭俵の横繩が通常の炭俵の横繩と異り(通常のものはねじて巻き込まれているだけである)男結びにして結び止められていること、これに相応するように同号証の繩にも男結びの結目があることにあるもののように思われる。然し、同号証の繩は前記の通り炭俵の繩かどうかすらも判然としないところのものであるから、その様に両者が相一致するからと言つて直ちに同号証の繩が右高木方生産の炭俵の横繩であると即断し得ないことはもとより、仮りにこれが同家の炭俵の繩であると仮定したとしても、男結びの結目ある繩即横繩と言う結論にはならないのである。何となれば、通常炭俵の縦繩はすべて男結びにされていること証人木村喜太郎の供述によつて明かな通りであり、高木方生産のものも亦その例にもれないことは同証人の証言並びに証第十七号によつて明白なところである。故に同十九号の如く単に男結びの結目があるだけではそれが縦繩であるか横繩であるかを決定する標準とは為し得ないものだからである。のみならず前記木村証人の供述によれば、通常のものは勿論、高木方のものもその縦繩は一重にして横繩が二重であるとのことであるから、証第十九号の写真の繩が実物がなくて判然とはしないが、どうやら一重の男結びにされているようにみえるところよりこれを見て、同号証は検察官主張のように横繩ではなくて、むしろ縦繩であると認めざるを得ないように思われるのである。
(ハ) このように検察官の本件各号証の藁繩についての立証は極めて不十分なものであるが、更に被告人はこの消防団員から寄贈を受けた炭俵は本件火災前(六月十一、二日頃)塵芥処理のための助燃材として同校校庭において焼却してしまつた旨弁解している。検察官は被告人の右弁解は虚構である旨主張し、その理由に次の二点を挙げている。その一は被告人の指示する個所にはその様な塵芥を焼却処理した跡がなく塵芥を焼却処理した跡が認められる個所は被告人指示のそれとは異る他の個所であつたと言うことであり、その二は、右の如く他所に発見せられた同処理跡にも右空俵を焼いたような形跡が認められなかつたと言うことである。
(i) 第一の被告人の指示した個所にはその様な塵芥を焼却処理した形跡が認められなかつたとの点については果して真に捜査官の捜査した個所と被告人の指示した個所とが同一であつたかどうかが明かでない。先ず被告人の指示した個所は如何と云うに、証人吉田清の供述よりすれば、同捜査に当つて捜査官は被告人を現場に同行しておらず図面によつてその個所を指示さしたにすぎない。そしてその指示した個所が何処であつたかは同図面の提出がないのでこれを詳にし得ない。被告人の司法警察員に対する供述調書によるもそのことは明確でない。よつてその供述のやや詳細に記載されている検察官に対する被告人の第二、三回供述調書及び被告人の当公判廷における供述による以外にないのであるが、これによると同個所は、同校正門より運動場に入り、同運動場コンクリート仕切南端辺の西南に傾斜している部分の南端部東寄り(当裁判所検証調書添付第一図面赤丸A部分)のあたりであることが認められる。ところで被告人の供述によると同個所は右焼却処理時より相当の時日を経過した捜査時においては既に本件火災焼跡よりの木材その他が山積され捜査不可能な状態にあつた筈であるとのことであり、このことはその捜査に当つた証人吉田清も一応否定はしているが敢てこれを争わないところである。従つて同証人の証言にも拘わらず本捜査に当り被告人の指示せる同個所についての捜査が為されたとみることは疑問の余地がある。
(ii) よつて被告人の指示せる以外の個所には炭俵を焼却したような形跡が認められなかつたとする検察官の第二の主張は(i)の如く解する以上当然のことで判断の限りでないことは言うまでもないことであるが、仮りに検察官の第一の主張を認め、その他の個所では炭俵を焼却したような形跡がなかつたかどうかを検討してみるに、本件においてはこの点についての立証も亦十分でない。検察官は右の証拠として、証人吉田清の証言及び証第十八号の存在を掲げる。その理由は、右吉田証人の証言をかりるならば若し被告人が他の個所で炭俵を焼却処分していたとすれば、当然同所よりその炭俵についていた繩の燃え残りが発見される筈であるが、本件においてはその形状輪の大きさ等よりみてこれとは全然別異のものと認められる証第十八号の古繩を発見したのみで何処からも他に斯る繩の燃え残りを発見し得ないから、同人が他の個所で本件炭俵を焼却した事実はないと言うことに帰すらしい。然しこの論理は明かに間違つている。炭俵は他の塵芥を焼却するためにその助燃材として使用せられたものである。藁俵は勿論これに附属している藁繩も(その炭俵に繩が付着せるままであつたかどうかも疑問である。被告人は検察官に対する第三回供述調書において、その炭俵についていた繩はほどいて薪をくくるのに使つた旨供述している)燃えてしまうのが当然である。時に吉田証言のようにその一部が燃え残ることがないとも限らないが、必ず燃え残らなければならないものではない。従つて、その焼跡より藁灰その他の炭俵の焼却されたような状況を存するものが何一つとして発見されなかつたとでも言うのであれば格別、同焼跡より少くも炭俵の繩と認められる藁繩の焼残つたものが発見されなかつたから、同所で炭俵を焼却したものとは認められないと言うのではその理由にはならないのである。
(ニ) なお、検察官は本件出火現場より蒐集した炭化物中に運動靴底の焼残り(証第十号の四、及び五)等が存する事実より、被告人がその弁解のように本件の空俵に一部燃え難い塵芥を詰めておいて、後本件放火を行うに際し、更にこれに紙屑を詰めて使用したものではないかとも推測されているのであるが、本件火災現場物置内にその以前から五、六個の古靴の存在していたこと平田外治郎の検察官に対する供述調書によつて明かなところであるから、その推測も亦当を得たものとは為し難い。
以上の通りであつて、本件第九、第十九号の各藁繩は検察官主張の如き証人高木勇生産の炭俵の横繩であるか否かが判然せず、また被告人が入手した高木勇方生産の炭俵が本件火災前焼却処分されずに存在しておつたものであるか否かも判然しないところであるから、右各号証と被告人とを結びつけて考えることは適当でなく、従つて右証第九、第十九号の各藁繩の存在によつて被告人と本件放火犯人とを結びつけることも亦許されないところと言わなければならないのである。
(2) その二は証第一号の「簿」と墨書した表紙の焼残り一点の存在である。
検察官は、右証第一号は、同校教諭鎌田初子が昭和二十七年度に三年一組を担当した際同クラス用に使用した会計簿の表紙であつて、同二十八年夏休み以降同二十九年一月頃までの間に、他の不要書類と共に被告人又はその妻西山ヨシヲに焼却方を依頼して手交したものであり、本件火災前小使室北側物置内に存置されていたところのものであるから、右の証第一号が本件火災現場から発見されたことは、被告人が本件放火の犯人であつて右表紙を当該放火の材料に使用したと言うことを示すものであると言うのである。
ところが、右証第一号が前記鎌田初子教諭の旧姓井門当時の使用物であつて、何年かの一組の学級主任時のものであることは、同号証に「井門」の押印並びに「の一」なる記載のあることよりして容易にこれを認め得るところであるが、同号証が検察官主張の如き(イ)会計簿の表紙で(ロ)昭和二十七年度の三年一組担任時のものであり(ハ)同二十八年夏休み以降二十九年一月頃までに同教諭より被告人又はその妻西山ヨシヲにその焼却処分方を依頼して手交されたものであるとの点は同教諭の証言その他の検察官提出の全証拠によるも未だ十分にその証明がなされたものとは言い難い。
(イ) 先ず第一に、右証第一号が会計簿の表紙なりや否やの点であるが、同号証は会計簿の表紙と思う旨の同教諭の証言にも拘わらず同号証の「簿」と墨書されている部分の上部、会計簿とすればその「計」の字のしるされている部分の左半分が焼燬して欠如し、その右半分の「十」に当る部分も見方によつては「十」と見られるが、その辺りを更に仔細に観察した結果、当該部分の中央やや下よりのあたりに「一簿」と一本の横棒と一点の打たれていることを認めることが出来るので「簿」の上部の文字は検察官等主張の如き「計」の字であると断定し難い(判然とはしないが「導」の字の如きものではないかと思われる)ことから会計簿と認めることの当否については甚だ疑問なきを得ないのである。
(ロ) 第二に右の証第一号が果して検察官主張の如く昭和二十七年度のものであるかどうかの点であるが、前記鎌田教諭の証言によれば、同教諭が一の組の学級主任を担当したのは、昭和二十五年度の一年一組のときと、同二十七年度の三年一組のときとの二回のみであるとのことであるから「の一」なる記載のある証第一号がその何れかの学級主任時のものであることは疑いない。そして同教諭が筆書きが下手で、証第一号の如く墨書すべき場合には、すべて習字担当の教師或は習字に堪能な教師にその墨書方を依頼していたこと、及び昭和二十五年当時の習字担当教師が西村敏子教諭で同二十七年当時のそれが奥村奥則教諭であつたことも亦争うべからざる事実のようであるから、同号証の文字が右両者の中の何れかによつて書かれたものとの確証が得られるならば、その使用年度もまた当然に判明する理であり、検察官或は司法警察員に対する右奥村教諭の供述調書に、同号証の簿の文字は、他に判定すべき文字なく断定はし得ないが自己の筆蹟のように思われる旨の供述のあるところより、一応右の簿の文字が検察官主張通りに同人の筆になるもの即ち同号証は昭和二十七年度のものであるとの推定を下し得ないでもないかの如くであるが然しこれも亦、あくまでも単なる可能性又は蓋然性にしかすぎないものであつて、確定的なものとは言い得ないものである。(何となれば、右の如く仮令同証人によつて同号証の「簿」の文字の筆蹟が同証人の筆蹟に類似する旨の推認が得られ如何にその蓋然性が高くても、未だ、同証人によつて同号証の文字が他の西村教諭等によつて墨書されたものでないとの確認が得られた訳でも、鑑定その他によつて右両者の同一性が確定せられた訳でもないのであるから、同号証の文字の記載が同証人によつて為されたものに相違ないと言うことを正当に決定するがためには、単にこのように同証人によつて為されたものとの推認が得られただけでは足りず、更に、同人以外の者で同号証の記載を行う可能性の認められる者即ち西村教諭その他の習字に堪能な教師によつてはその記載が為されたものではないと言うことをも立証し、この後者の可能性を否定することが必要なのであつて、本件においてはこの後者につき何等その立証が為されていないところだからである。蓋し、然らざれば、本件証第一号の筆蹟が右奥村教諭によつて自己の筆蹟であると推認せられると同時に、他の西村教諭等によつても亦、これと同じく自己の筆蹟であると推認される場合(これ等の筆蹟が互に相似する場合)必ずしもなしとはしないからである。)
しかのみならず、或はこのことは単に裁判所のみの独断にすぎないものかも知れないのであるが、後日小使室物置内より発見された上村君子教諭使用の昭和二十八年度の二年三組の会計簿の表紙(証第十四号の一のうち)中、前記奥村教諭によつて墨書されたもの(右二枚の中の達筆なもの―証人上村君子の第十二回公判の供述による)の「簿」の文字の筆蹟(書体)と右証第一号の「簿」の文字の筆蹟(書体)とがやや異り同一人の筆になるものではないように考えられるところからも、そのような推定をすることが可能なように思われるのである。
(ハ) 第三番目のそして右(イ)(ロ)に比しより重大な疑問は、右証第一号は、真に前記鎌田初子教諭によつて焼却処分のため被告人等夫妻のもとに手交されたものであるかどうかの点である。
同教諭は当公廷において、同号証が昭和二十七年度のものとしても、遅くとも同二十九年一月頃までには被告人等にその焼却方が依頼せられ、他の不要書類と共に被告人等のもとに提出されている筈であると主張する。然しそれは同証言自体によつても明かな通り、格別確たる手交の記憶乃至は根拠があつてのことではなく、そのようにすることが通常の慣行であり、若しそのようにしたとすれば同年一月以降は被告人等に対し斯る焼却処分の依頼をした覚えがないから少くともそれまでに被告人等に対して手交されているものと思うと言う程度にすぎない。換言すればこの事実も亦単にその様な可能性乃至は蓋然性があると言うにすぎず、被告人と同号証との結びつき従つて被告人と本件放火との結びつきを示す根拠としては、しかく確定的なものとは言えないのである。と言うのは、必ずしも次の如き推測を否定する事情なしとしないからである。即ち本件火災現場から右証第一号の表紙の外に、同じ鎌田教諭によつて使用されていた昭和二十五年度の一年一組の出席簿の焼け残り用紙若干(証第三号)が発見せられていること同号証の存在並びに右鎌田教諭の証言によつて明かなところである。ところで、斯る出席簿はその使用ずみ後当然担当教諭によつて同校教務課まで返還され同教務課においてこれが永久保存を為すべき書類であつて、担当教諭その他の者によつてほしいままにその焼却処分などをすることの許されないものであることは、証人平田外治郎、同鎌田初子の各供述等によつて自から明かなところであるから、右の証第三号の出席簿も絶対に焼却処分のために被告人の手許にわたることのあり得ないものであること言うまでもないところであろう。然るに右証第三号が本件火災現場より発見されたのは一体如何なる事情に基ずくものであろうか。被告人その他の本件放火犯人によるその保存場所(焼け残りの特別教室)よりの盗用が為された結果に基ずくものであろうか。確実なる証拠を以てこれを論証することは出来ないが、前記証人鎌田初子、同平田外治郎の供述並びに同人の検察官に対する供述調書等からこれをみて恐らくは次のような事情によるものではないかと考えられる。
即ち本件証第三号の出席簿は昭和二十九年五月二十六日の第一回目の火災時までは他の昭和二十二年以降同二十六年迄の全学級の出席簿と共に本件火災現場物置内書類箱に保存されていた。そしてこれら出席簿は第一回の火災時同校職員等によつてその類焼を避けるため同校舎西側渡り廊下まで持ち出され、同火災鎮火後その保管場所を前記焼残りの特別教室内に変えられその大部分が同所に移動保管せられることとなつたのであるが、本件証第三号及びその他の同二十五年度の一年のもの全部、二年の一、二組、三年の二乃至七組等現在現存しておらない二、三十冊の出席簿は右の際何等かの理由によつて同物置内より搬出されるに至らず保管替えにならなかつたか、或は一旦同物置内より前記西渡り廊下まで搬出されはしたが、その後再び何人かによつて同物置内に収納されていたため遂に右保管替えの際その対象から没却され、そのまま同物置内書類棚に残置されたままになつていて、本件の際、当該放火犯人によつてその放火材料として使用され、その中の証第三号第五号が焼け残るに至つたのではないかと思われるのである。そして本件証第一号の簿と墨書されている何らかのものの表紙は、これが右様の事情にあるものと考えられる証第三号の出席簿用紙と同じく鎌田初子教諭の使用にかかるものであり、しかも同号証(第三号証)と同じく昭和二十五年度の一年一組担任時のものである可能性がない訳でもないこと前記(ロ)記載の通りであるから、この推定通り同号証は同第三号証と同じく昭和二十五年度の鎌田教諭一年一組担任時のものであつて、同教諭により何等かの都合により証第三号の出席簿中にはさみ込まれるか何かして同号証とその存在を共にし、これと共に焼け残るに至つたのではあるまいかと推測されるのである。果たして然りとすれば、本件証第一号も亦被告人以外の者による使用が可能であることは明瞭であつて、その存在が被告人と犯人とを結びつける根拠となり得ないことは勿論である。
(3) その三は証第二号の赤線罫紙並びに洋紙の焼残り若干の存在であるが、これと被告人との結びつきについての検察官の主張は次の通りである。
打出中学校における昭和二十九年五月二十六日の第一回の火災後、同校生徒谷伊佐雄等三、四名は同校焼跡より二日間にわたり多量の同校用赤線罫紙並びに洋紙の焼残物を拾集し同年六月七日頃その使用可能な部分をメモ用として使用するため同校洗濯室前で截断機を使つて截断したのであるが、その際同校江崎教諭等に注意せられる等のことあり同人等は中途においてこれが截断を断念し、それまでに截断せる切端と共に残りの未截断の罫紙等をも同所備えつけの紙屑バケツに投棄しておいた。そしてこれはその後同校事務員小村保子によつて小使室の被告人等夫妻のもとに焼却のため持参せられているところであるから、本件火災現場よりそのうちの一部の罫紙洋紙の焼残物が出て来たと云うことは犯人が右の罫紙洋紙の紙屑を本件放火の材料に供したと云うことを示すものであり、右罫紙洋紙屑を自由に使用し得る者は被告人の外には見当らないから被告人がその犯人であると言うにある。
然しながら、この点についてもまた前二者の場合同様右の如く認めるにつきその可能性がない訳ではないが、これを証するに足る確たる証拠なく、被告人断罪の資料として余りに多くの信をおくことは出来ないのである。
(イ) 先ず第一に前記小村保子は右の罫紙洋紙等の紙屑を検察官主張のように小使室の被告人のもとに持つて行つたか、当時同校校庭に備えつけられてあつた塵箱代用のドラム罐内に廃棄したか判然しない旨証言しており、検察官主張の如く確実にこれが被告人の手許に到達したか否かが明らかでないし、
(ロ) 第二に、仮りに検察官主張の如く小村保子が右の罫紙洋紙等の紙屑を被告人のもとに持参したことが確実であると仮定しても、本件火災現場跡より発見せられた本証第二号の罫紙洋紙の燃え残りが果して検察官主張の如く、被告人のもとに右小村保子が持参した罫、洋紙の紙屑と同一のものであるかどうかも確定せられておらないからである。検察官主張の如く本件証第二号証が右の洋罫紙の紙屑と同一物なりと仮定すれば、当然に前記谷伊佐雄等によつて截断された截断辺を有する切片又は切断片等も多少はその中に混つていなければならないように思われるのであるが、同号証にはどれ一つとしてそのようなものの存在を認め得ず右両者の同一性を確定するには由ないものである。
(ハ) 果して然りとすれば、同中学校には証第二号の如き赤線罫紙或は洋紙等多量の紙類の存在すること論ずるまでもないところであるから、本件放火に証第二号の洋罫紙が使用されているにしても、そのことの故に直に同号証と被告人とが結びつけて考えられなければならない訳のものではないのである。
(ニ) のみならず前記谷伊佐雄等によつて拾い集められた洋罫紙の焼残物は截断前一且本件火災現場物置内に収納された事実のあること検察官も認める通りであり証人谷伊佐雄、同葭田雅弘、同古田耕造、同谷口喜代志の証言等によつては、後日截断のため同物置内より取り出されたものがその全部であつたか否か判然しない点も認められるので、そのうちの一部が残存していてこれが本件放火に使用され焼け残つたのではないかと考えられる余地も存するのである。
証人永倉敬昭、同福岡芳太郎、同二村成が本件火災直前同物置内において若干の紙類の存在した事実を認めているが、その若干の紙類が右の洋罫紙ではなかつたとは断言することを得ないところだからである。
以上の通りであつて、右の証第二号も亦被告人と犯人とを結びつけるについての確たる証拠とは為し得ないものである。
(4) そして検察官は、右の証第一、二号及び同第九、第十九号の出所を小使室若しくはその周辺と断じた上、被告人以外の者がこれらを持出して放火材料に供することは、(イ)これらのものの入つていた小使室北側物置の入口の戸が常時閉鎖されていてその開閉は容易に小使室に起居する被告人夫妻に判明するが如き状況にあつたこと、(ロ)炭俵につめて本件放火に使用した紙屑の量が相当の量にのぼり簡易には持出し難かつたこと、(ハ)特に事件前夜の午後十二時頃までは夜警が厳重で外部のものによる持出しは殆ど不可能な状況であつたこと、(ニ)時間的に見ても夜明けに近く既に通行人もある午前五時半前後頃、他の犯人が小使室等より右紙屑等を空俵につめて携行の上、本件階段下物置内に侵入するなどと云うことが到底推定することを得ない事柄であること等よりして、到底為し得べきことではない旨主張するのであるが、前述の通り同号証が小使室周辺のものでなかつた場合は勿論検察官主張のように小使室周辺にあつたものと仮定しても、検察官主張の如き右事情にあつて、被告人以外の者によるこれらのものの使用が極めて困難な実状にあつたことは、とりもなおさず被告人そのものによつても亦これらを持出して放火材料に供することの極めて困難な事情にあることを示すものに外ならず、その間の事情に多少の難易はあつても被告人によるとその他の者によるとによつてさほど大きな差異はなく、右の事情は被告人以外の者による犯行ではないと言うことを確定的に推論せしめるものでも、被告人そのものによる犯行であると言うことを確認せしめ得るものでもないのである。従つて検察官の本主張もまた被告人を犯人なりと断定する十分なる論拠とするには足りないものである。
(5) 検察官が被告人との結びつきを示すものとしてその四に掲げるものは証第二十七号のガラス壜一の存在である。
検察官の主張によれば同号証のガラス壜は被告人が本件放火に使用したエチルアルコールを持ち運ぶために利用した容器と推定されると云う。その主たる理由は同校舎西側生徒便所内より同号証が発見せられてから、従来、当日朝自己の行つた便所は同生徒便所であつた旨の供述をしていた被告人が、当日朝自己の行つた便所は同生徒便所ではなく、小使室前職員便所であつたとその従来の供述を改めた点に存するものの如くである。
ところが、捜査官によつて同生徒便所より右証第二十七号の空壜が採取せられたことを被告人が感知していたと云うことを認めるに足る証拠なきのみならず、仮りに被告人が右事実を熟知し且つそのために前記の如くその供述を変更するに至つたものと仮定してみても、このように被告人が当日同人の赴いた便所についての供述を変更するに至つたその理由が、真実被告人はその供述通り本件を行つていないにも拘らず、たまたま当日朝被告人の赴いた(或は赴いたと捜査官に供述していた)同生徒便所よりそのような放火に関係ありと目される証拠品らしきものが発見せられたため、従前のような供述をしていたのでは自己に不慮の不利益がふりかかることになるのではないかと、そのことを恐れるの余りの窮余の一策であつたのかも知れないのである。何れにしても右証第二十七号についての検察官の立証は極めて薄弱なものにすぎず、同号証が被告人の手許にあつたものであると云うことを証する資料は何一つとして存在しないところであるから、同号証は検察官主張の如きものであるかも知れないが、また同中学校生徒その他の者によつて同所に投げ捨てられた本件放火とは全然関係なき品物であるかも知れないのである(同号証の形状及び蓋のない点等アルコールなど液体を入れるに適しない容器と考えられることよりみても本件放火とは関係なきものと認められる可能性が強い)
要するに同号証も亦積極消極両様の推理を行うことが可能なのであつて、検察官提出の証拠を以てしては未だその何れとも断定することを得ないところのものである。
(6) なお第五として、検察官は被告人とエチルアルコールとの関係につき次のように主張する。
同校理科準備室には本件放火に使用したと認められるエチルアルコールと同種のものが存在し、被告人にはそのエチルアルコールを入手することが極めて容易な状況にあつた上、被告人方居宅から同校理科実験用の試薬壜多数が発見されていることを綜合すると、被告人によつて同校理科準備室備えつけのエチルアルコールが盗取され本件放火に使用され得る可能性が多分にあると。
然しながらこの主張も亦単なる推定以外の何物でもなく、被告人によつて右理科準備室備えつけのエチルアルコールが盗取された事実を証する証拠も、被告人によつてそのエチルアルコールが本件放火に使用せられた事を示す証拠もない。のみならず証人西尾生一の供述並びに証第十三号証によつて明かな通り同校理科準備室にはメチルアルコールこそ多量存在してはいたけれども、エチルアルコールは従来から右証第十三号証を除いては全然その存在を認めることが出来なかつたこと、メチルアルコールは第一回の出火の前後にわたり多少の増減を示してはいる(未発見のものが発見されたり理科実験に使用されたりして)が、本件放火に使用されたと認められるエチルアルコールの方は、全然その増減が気付かれておらないことを認めることが出来、同理科準備室のエチルアルコールは何人によつてもその盗用が行われた形跡のないこと即ち本件放火に該アルコールが使用された形跡がないことが認められる。しかも本件放火に使用せられたエチルアルコールの量は前記安藤直次郎の(鑑定)証言によれば、少くとも一合(百八十cc)以上の量でなければならないのであるが、右証第十三号のエチルアルコールはその全容量でも僅かに百cc(正確には九十cc)にすぎず、押収時はその中約六十ccのエチルアルコールが残存していたのであるから、仮りにその余の不足部分のエチルアルコールが全部盗用せられていたと仮定しても、その量は僅かに四十ccにしか満たず、到底本件放火に使用されたエチルアルコールの量に満たないことからもその間の事情を明かにし得るものと考える。なおまた更に百歩を譲り、仮りに右証第十三号のエチルアルコールの外に同校に本件放火使用量程度のエチルアルコールが存在していてこれが何人かによつて盗用せられたものと仮定しても、これを盗用し得るものはただに被告人のみに限らないものであるから、敢て被告人のみにその嫌疑をかける訳には行かないのである。
以上の通りであつて、若し本件が被告人による犯行とするならば、当然その犯行に使用されたエチルアルコールの入手先が明かにされなければならない筈であるが、本件においてはその立証も亦十分でなく、被告人による犯行と断定することは困難である。
(三) 検察官が被告人を本件放火の犯人であるとする理由の第三は次の如き情況証拠の存在することである。
(イ) 被告人は当日朝五時頃既に目を覚していた旨一貫して供述しておるのであるから他に犯人ありとすれば略同五時半前後頃敢行せられたものと推定される本件犯行につき何等かの異常を感知している筈であり、被告人より幾多犯人検挙の端緒が得られた筈であるが、被告人からは終始自己弁護以外の何物をも得られなかつたこと。
(ロ) 被告人は当初当日午前五時半頃本件第二校舎西側生徒便所に行つた旨供述していたに拘らず、同生徒便所より証第二十七号のガラス壜が発見せられると共にその供述を翻えし、当日朝自己の赴いた便所は同生徒便所ではなく、小使室北東職員便所である旨その供述を変更していること。
(ハ) 被告人は平素は午前六時か七時頃起床する習わしとなつているに拘らず当日に限り午前五時頃目をさましていること、またこれまで被告人は新聞を受け取りに出るなどのことは一度もなかつたのに当日に限り午前六時前頃新聞を受け取りに行く等極めて異常な行動に出ていること。
(ニ) 被告人の云つている当日朝における同人の行動の時刻及び順序についての供述が区々にわたり、その供述内容も極めて曖昧なものであり犯行時の時間的空白を糊塗しようとしていること。
(ホ) 被告人が本件火災直後、前日の日直員二村成に対し出火現場たる物置の施錠の有無を確め、また他の職員に礼法室の入口の施錠が外れている事実を確認させる等の挙措に出、殊更犯人が外部より侵入したように見せかけ、自己の犯行をカモフラーヂュしようとしていること。
(ヘ) 本件火災後大津警察署員が現場検証を行つた際、被告人が係官に怪まれる程の異常な熱心さで係官につきまとい出火場所附近を見廻つたこと。
(ト) 火災当日の夜、被告人が同校舎附近の並川由起子及び中井一郎方を訪ね、火事見舞を装い或は警察から調査方を依頼されたと詐称して同人等の火災発見当時の状況を偵察に行つていること。
(チ) 本件後、六月二十九日職員室で小林昭二外の教諭達が当夜の宿直員及び小使に本件の容疑がかかつている旨並びに当日朝便所に行つた者は当然本件火災を発見し得た筈である等と話し合つていることを妻西山ヨシヲより伝え聞いた被告人は直ちに職員室に怒鳴り込んで行つた上、同日公民館において出会つた同教諭に再度喰つてかかつた事実があること。
等がこれであると言う。
然しながら右(イ)(ロ)の点についてはさきに述べた通りであつて、本件放火材料が必ずしも小使室周辺より持出されたものと限らず異常を感知し得ない場合もありうること、若し仮りに主張のように本件放火材料が小使室周辺より持出されたものとしても、何等の異常も感知せず犯人検挙の端緒を与え得なかつたものはただに被告人のみに限らず被告人の妻西山ヨシヲも被告人と同様にして、何等の異常も感知しておらないのであるから敢て、被告人のみを責める訳には行かないこと、更に若し被告人の犯行とすれば、被告人と雖も右西山ヨシヲに何等の異常を感知されることなく本件放火材料を持ち出すことは極めて困難な事情であつたことよりして右(イ)の主張はこれを是認することが出来ず、(ロ)の点についてはさきに述べたところ以外にも被告人の弁解するように、被告人の妻西山ヨシヲが便所へ行つたと言う被告人の言を勝手に西生徒便所と判断し、そのように他の職員その他に喧伝したため止むなくそのまま同生徒便所に行つていた旨踏襲していたが、後日はからずも放火犯人との疑を受け且つ同生徒便所より放火に関係あるらしき証第二十七号のガラス壜が発見せられるに至つたので、以来不測の嫌疑を受けるのを避けるため真に自己の行動した通りに供述を改めたにすぎないものとみられない訳でもないのであるから、必ずしも検察官主張のように異常視するには当らないようにも思われるのである。
(ハ)(ニ)の点についても同様であつて、(ハ)の如き行動があつたからと言つて特に検察官主張のようにこれを異常視し、犯行直後の被告人の精神的不安動揺を示すものとするには当らないし、(ニ)のように仮りにその供述特に時間並びに行動の順序についてのそれが区々にわたると仮定しても、それが殊更に犯行時の時間的空白(どの部分のことを言つているのか判然としないが便所へ行つた部分のこととすれば既に述べてある通りである)を糊塗せんがためであるとしなければならない理由もないように思われる。当法廷において被告人が供述するように、捜査官により入れかわり立ちかわり当日朝の時間的行動の詳細を追求され詳細な時間的記憶なきためこれに与えた答弁が多少時間的に吻合しない結果を招来すると、直ちにその点につき異常に厳しい糾問が為され、他にその糾問を逃れる術なきため、止むなくこれを避けんとしてその供述を二、三にしその後更にそれを訂正しなければならなくなつたりしてこのように区々にわたるに至つたものと考えられないこともないように思われる。このことは警察における被告人の供述調書全般を通覧すれば随所においてその間の消息を看取することが出来るように思われるのであるが、特に「これから言うことで間違いがあつたら責任をとります。」(七月四日吉田警部末項)とか、炭俵の焼却事実に関して「このことは絶対に間違いないので若し間違つていたら私が打出の学校に火つけしたと言われても致し方ありません。」(七月九日吉田警部二項)等の供述を為さしめているところにその一端をうかがい知ることが出来るように思う。
(ホ)(ヘ)の事実も、被告人が犯人であると仮定すれば検察官主張のように認められないこともないであろうが、その事柄だけを取り出してみれば、検察官主張の様に異常視するにも当らないように考える。蓋し、検察官の主張とはまさに正反対に、被告人が犯人を挙げるのにそれ程熱心であつたためとみられないこともないからである。特に(ヘ)の場合、その熱心さの異常性それ自体の故に直に被告人が犯人ではないかとの嫌疑をかけられる程に異常なのであれば格別、本件の場合はその当時は随分熱心な小使だなと認められた程度にしかすぎなかつたものが、後で犯人と断定してみるとなるほどとその熱心さが思い当ると言う程度にすぎないのであるから、熱心さそのものは未だ通常の、犯人でなくともあり得べき熱心さと言えないこともないからである。
(ト)の行為は確かに検察官主張の如く疑えば疑えないこともないようであるが、然し被告人弁解のように警察において被告人の覚えのない火災現場物置の入口の戸及び南側西入口の扉の開閉について鋭い追求を受けたためその事実を探知するべく右並川及び中井方に赴いたものと認められないこともないように思う。検察官は被告人が並川及び中井を火災現場に見かけておらないのにかかわらず同人等方に尋ねに行つたのは納得出来ないと言うが、被告人が中井方へ赴くに至つたのは右事実(中井が現場へ行つた事実)を並川に教えられたからで、何等不審な点なく、並川方に行つたのも同家が火災現場に近く或はその間の事情を知つているのではないかと考えて聞きに行つたものと思われるのである。
(チ)の事実は検察官自身も認めているように積極消極両様にみることが出来ることその主張の通りであるから、そのことが被告人を犯人なりと推認せしめる情況証拠となり得ないものであることは言うまでもあるまい。
このように検察官において情況証拠として主張する事実は或る程度その異常性を疑えないこともないように思われるが、また反面必ずそうでなければならない理由もなく、未だ被告人が犯人であると言うことを断定するまでには至らないのである。
(四) 最後に本件犯行の動機であるが、検察官は被告人による本件犯行の動機として、
(イ) 被告人は昭和二十九年四月以降自己の意にそわない退職の勧告を受けていた。本件放火は同火災時における消火活動により自己の力量を示して右問題を有利に導かんとして為されたものである。
(ロ) また被告人は当時打ち続いた二回の火災のためその火事跡の整理に疲れていた。本件放火は、その上にこの焼け残つた校舎のため徹宵夜警に当つていたPTA役員その他の者の応接をしなければならぬその応接等の煩労を嫌うの余りのものである。
(ハ) 被告人は第一、二回の放火犯人として検挙された小野田博、同俊一の兄弟並びに小野田一家の者に深く同情していた。本件放火は第二回目の右俊一による犯罪は寃罪であると言うことを仮装するためのものとも思われる。
と言う三つのものを挙げている。
然し(イ)の動機については証人大塚甚三郎、同岡山四郎、同平尾新三郎等の各証言並びに被告人の当公判廷における供述を綜合して認められる通り、完全にその勤続の了解が成立するまでには至つていなかつたにしても既に或る程度の了解が得られ問題解決の大体の見通しはついていた筈であり、仮りに然らずとするも長男次男その他子女皆すでに独立し、経済的不安もなかつた被告人のことであるから、仮令右勧告に従つて退職したとしても何等生活その他に困窮を来す訳でもなく、また被告人はその主張の如く二十五年勤続を希望してはいたが、それとても敢て本件放火を行つてまでもその勤続を図らなければならぬ程の事情にあつたものとは認め得られない(退職金その他のものは当時やめるのと二十五年勤続後やめるのとで異るところは全然ない)ところであるから、その動機としてこれを認容することは困難である。のみならず右の如く火災時における消火活動により自己の力量を示し、退職問題を有利に導かんとしたと言う検察官の主張自体余りにも本件放火の動機としては薄弱ではないかと思われる。蓋し被告人は既に幾多の人生経験を経て来て老境の域にある老人であつて、思慮分別も何もない若者ではないからである。
次に検察官主張の(ロ)の点については検察官自身さきに指摘してある通り、その前夜第二回目の放火犯人の検挙が為され、同日午後十二時頃を以てその夜警はすでに解除せられていて被告人もこれを知つていたものと推測せられるところであるから同日午後十二時以後即ち本件時においてはその夜警も、同夜警員等の応接等もすべて不必要となつていることは論ずるまでもなく、その煩労を嫌う余りに放火するなどと言うことの到底あり得ないこと明かである。検察官主張の(ハ)の点については、これを認めるに足る証拠毫もなく、しかも前記小野田俊一が第二回目の放火犯人として検挙されたのは本件前夜の午後十二頃であつて、本件はその直後の午前五時半頃行われたのであるから、若し検察官主張の如き理由によるものとすれば被告人によるその熟考準備時間は僅に五時間余にすぎず余りにも即断即行的であり到底その主張を是認することは出来ない。
これを要するにこれらのものは被告人による本件放火の動機としては極めて薄弱なもので本件においてはその動機も亦十分なる立証が為されていないと言うことにならざるを得ないのである。
第三、結論
以上検討した通り、証第一、第二、第九、第十九、第二十七号証共一応被告人と関係し得る可能性が全然ない訳でもないが、これを否定し得る可能性も亦多分に存し、本件放火材料たるエチルアルコールの出所(入手先)及び本件放火の動機が分明でないこと、時間的に見ても被告人にそのような行為をする余地があつたと認め難いこと等の諸事情を綜合すると未だ被告人を犯人なりと断定するには足らず、前記検察官主張の諸情況証拠を以てしても右結論を左右することを得ない。
従つて被告人については、結局その犯罪の証明が十分でないと言うの外なく、刑事訴訟法第三百三十六条後段により無罪の言渡をせざるを得ない。
よつて主文の通り判決する。
(裁判官 柳田俊雄 石田登良夫 細見友四郎)